10年目のキス




パタンと雑誌を閉じると若林は大きく欠伸をした。

それを見て、岬の方は大きくため息を吐いた。
彼の手には掃除機の柄が握られていてヴィ――――ンと耳障りな音を出しているが、よくもまぁ離れている人間の欠伸に気が付いたもんだと睨まれて若林は思った。
だが、何もせずぼうっとしている人間と、掃除という労働をしている人間とではぼうっとしている人間の方が分が悪い。
同等の立場として住んでいるのだから、自分もそれなり働かなくてはいけないだろう。
若林はそのまま再度の欠伸を噛み殺しながら立ち上がると、一度ボリボリと背中を掻いて、いつもならそのまま狸寝入りをするのをせず、岬の冷たい視線を背に受けたままさっきピーッと終了の音のした洗濯機のある洗面所へと向かった。

リビングからサンダルを履いて庭に出て、一つずつ洗濯物を広げる。
ほとんどやったことがない作業に手間取りながらも、パンという布の張る音が心地良く、顔に当たる陽射しもまた気持ちいい。
朝からとてもいい天気だ。
まぁ、休暇とはいえ、こんないい天気の日に寝扱けるのはもったいない、というのもわかる。
一通り洗濯物を干し終えると、部屋の中で掃除をし終わったのだろう、リビングには岬はいなかった。中に入ると今度はキッチンで洗い物を片付けていた。
よく動くな、と感心する。
今度は部屋の中から外を見上げて先ほどの岬の顔を思い出し、珍しく、偶にはどこかへ一緒に出かけようと思いついた。

キッチンでカチャカチャと音を立てている岬に声を掛けた。

「いい天気だな。」
「そうだね。洗濯物、ありがとう。」

いつもは岬の仕事とばかりに行っていた洗濯物を干してもらって機嫌が直ったのだろうか。はにかむような笑顔で返された。
ありがとう、というのは、本来ならば違うのだろうが、今までが今までだ。若林はちょっと罪悪感に囚われる。

「たまには出かけないか?」
「え?」

やっとリーグも終わり、休暇に入ったとはいえ、身体の疲労がかなり溜まっていた。
そのため、ここ最近はどこにも行かずに只管家で寝ているか、マッサージに出かけるのが多かった若林からの提案に岬が目を丸くした。
だが、「出かけないか?」と言われても、急な話だ。何処へ行くというのだろうか。

「何処に行くのさ?」

若林が困った顔をする。本当に何処へ行くかはまるっきり考えてないようだ。
岬は「まったくもう!」と苦笑する。

「お前の行きたいところでどうだ?前、言ってただろう?連れて行って欲しいところがあるって。そこに行こう。何処だったっけか?」
「う〜〜〜ん。」

前に行きたかったところ、と言われて岬も困る。
今まで何度となく、「若林に連れて行ってくれ」と訴えていた場所があるのはあるのだが、あまりに昔の話で、もうとっくに諦めてすっかり忘れていた。それも一箇所や二箇所ではないので尚更だ。
若林と一緒に出かけることがめったにないのだから嬉しくないはずがないのだが今までのことを考えると素直に喜べない自分になんだかちょっっぴり腹が立った。
洗い物も終え、考えながら手を拭く岬に若林が肩に手を掛ける。
こんなスキンシップも実は久しぶりなのではないか、と岬は若林のゴツゴツした大きな手を見て思った。

「何か、やましいことでもあるの?」

じっと見上げて言うと若林は「はぁ?」と変な声を上げた。

「だって、めずらしいじゃない、どこか行こうって言うの。それに・・・。」

肩に掛かっている若林の手に視線を移す。

「こんな風に触れてくることもなかっただろう?」
「あ〜、そうか?」
「そうだよ。僕はてっきり世に言う、倦怠期の夫婦のようになっているのかと思っていたよ。」
「あ〜〜〜〜・・・・・・。」

若林はガクリと肩を落として、先ほど以上の罪悪感に苛まれた。

岬の言うのももっともだった。



出会ってすでに20年以上経つ。あの時はまだ、小学生だった。
そして、一度は別れたが中学の時に再会。それをきっかけにまた、サッカー仲間として付き合うようになった。その後、いろいろあったが友人以上の関係になり。
今でも現役で活躍する若林と違い、古傷が元で引退をした岬を説得して一緒に暮らすようになって10年が経つ。
その時は、「若林に養われるのはいやだ」と岬はクラブのジュニアチームのコーチへと道を決めた。指導者としての道はそれはそれで勉強しなくてはいけないことが沢山あるのだが、岬には向いていたのだろう。上手く子ども達と接しており指導も上手くいっているようで、プロデビューして活躍する子も何人かいた。
立派に仕事をこなしている。収入は違えども、同等の立場として一緒に生活をしているつもりの岬だった。
だが、元来の性格からか、家にいる時間の違いからか、所謂、家事という仕事は岬がこなすようになっていた。まるで働く主婦だ。
それを若林は気が付けば当たり前のようになっていたのだろう。
帰れば、ご飯が出来ており、お風呂も沸いている。最初は分担しようと分けていた仕事も若林があまりに手をつけないから見かねた岬が動くようになっていった。
それこそ情交も立場としては岬が女性の側になっていたから、まるで働く主婦と思えても仕方が無かった。
そして10年が経てば、生活が落ち着いてくるのと平行して、気持ちも生活も緩んできていた。
若林は、家で忙しくしている岬を見てもさも当然とばかりに手伝いもせず、スキンシップはなくなり、ひどい時には、まだそこまで歳を取っていないはずなのに、まるで親父のように岬のことを「おぅ。」とか、「やぃ。」とか呼んでしまったこともある。
それは時の流れを考えれば仕方がないことかもしれないが、だからといって、時の流れの所為にしてはいけないのもまた事実だろう。

若林はコリコリと鼻の頭を掻いた。


と、そこへ聞きなれた音楽が届いてきた。若林の携帯の着信音が大きく鳴り響いている。
これもまた、岬の機嫌を損ねる原因の一つになってしまうだろう、と出るかどうか思案したが、無視するわけにはいかないだろう。相手によって使い分けている音楽が掛けてきているのが仕事相手だと告げている。
足早に若林はテーブルの上に置かれていた携帯を手にとる。チラリと見えた岬の視線が痛かったが気が付かない振りをした。

「もしもし、若林?休日にごめんなさい。」

ディスプレイで確認はしなかったが、電話の相手は予想通りの人間だった。

まだまだ現役のサッカー選手として活躍している若林は、仕事と言ってもそれはやはりサッカーをすることで、試合に出たり練習をしたりする以外には大して仕事ということはないのだが。
それでも人気のある選手としてはテレビ出演や雑誌のインタビューなどあちこちでひっぱりだこになっている。
今は休暇中の身ではあるが逆にそういうタイミングを狙って選手以外の仕事が持ち込まれる時期でもあった。

「悪いけど仕事よ。」

電話の相手はそういった試合以外のスケジュールを調整するクラブのスタッフだった。女性だが、とても仕事ができる人間でクラブ上層部からの信頼も厚い。広報マネージャーとして選手を上手く使っているな、と若林も思う。もちろん自分達はクラブにとってある意味商品だから仕方が無い。
だが、今は休暇中である。
彼女が言う仕事は本来明後日の予定のはずだ。

「雑誌のインタビューだと話していたけど、外での撮影もあるからできれば今日のような天気の時に済ましちゃいたいのよ。向こうの了承も得たし。」

なるほど、確かに写真の写りもいいだろう天気だ。外出すると同様に。

若林はチラリと岬を覗き見た。
すでに岬は、若林が仕事に行くと思ったのか、若林のバックに手を掛けている。荷物の用意も大概岬が用意してくれていた。
表には出さないが、その表情はもはやわかっていると云わんばかりの諦め顔だ。
岬がそのような顔をするのも、最もだった。
家事以外のことでも、このような急な若林の外出は時々あって、いつも若林は岬の心の内まで考えずに何もいわずに出かけていた。
だからこそ、敏腕マネージャーが決定済みのように仕事を持ってくるのだ。

ずっと同等の立場で一緒に生きて行こう。と決めて、こうして一緒に暮らすようになって10年。
最初の頃は別にしても、いつの間にか、岬には寂しい主婦のような気持ちを持たせていたのかもしれない。
熟年離婚が多いというが、結婚という形にはなっていなくても、自分達も同じ道を辿りつつある。
そんな自分の態度を、岬の様子を見て改めて自覚させられた。

最初はこんな予定で一緒になったわけではないのに。

後悔ばかりの生活をこの先したいわけではない。
ずっとずっと岬といつまででも一緒にいたいのだ。いつまででもお互いを大事にして愛し合いたいのだ。





そういえば、ずっとここ最近、岬の満面の笑顔を見ていないな。





若林は携帯を持つ手に力を込めると。

「悪い、今日は予定がある。」

そう言って、相手の返事を待たずに携帯を切った。

驚いて若林を見つめている岬にゆっくりと歩み寄ると、そのまま岬に優しいキスを送った。



END


06.12.14




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コメント:若林くんの誕生日祝いを書こうして、けっきょくこの程度(涙)。
     しかも、ほのぼのを目指して玉砕。すみません。(土下座)