初恋 ―開花編― (中学生編)
「はぁ。」 パタン ため息と共に教科書を閉じる。 一通りの勉強を終え、軽く瞼を閉じて目頭を押さえた。 外はかなり暑いらしく蝉の鳴く声が暗い夜空でも響いていた。部屋の中はクーラーの風が気持ちよく流れている為暑くはなかったが、少し疲れているのか、体がだるい感じがした。 「もうすぐ、お兄ちゃんが帰ってくるころだな〜・・・。」 机の上に顎を乗せ、目の前の時計をチラリと見るとすでに7時を回ろうとしていた。 さて、ときちんと座りなおし、もう一度教科書に手を掛けようとしたその時、玄関のチャイムがなった。 岬は、ゆっくりと立ち上がると玄関に向かった。 「お帰りなさい。」 岬が若林と一緒にこのマンションに住むようになって七年が経っていた。 岬は中学三年生になり、今年は受験生だ。 受験予定の学校はここ南葛市でも有数の進学校で、岬達の通う中学でも毎年数人しか受からない高校だった。 『岬の成績ならまず間違いはないだろう』と進路指導の先生は言っていた。自分でも絶対とは言わないまでもそれなりに自信はあった。 しかし・・・。 若林の知らない内に岬は最初に予定していた受験先の高校を変えていた。それはまだ若林には言ってない。そして、新しく変更した高校はもっとレベルの上の学校で今まで以上に勉強をしなくてはいけなかった。 (言わなきゃいけないんだろうけど・・・。) 若林が帰ってきて一緒に食卓についたのだが、岬は考え事をしていた為食が進まず、テーブルの上のおかずはほとんどが手つかずだった。 「どうした?最近あまり食べてないじゃないか?体の調子が悪いのか?」 この日だけでなく、ここ最近岬の食が細いのが気になっていた若林は自分の箸も止め、心配そうに声を掛けた。 若林はすでにごはんが2杯目になるほどだったのに対し、岬は一向に箸が進んでいなかった。おかずも今日は岬が好きな肉じゃがなのに、その量は一向に減っていない。 「あ・・・ううん。大した事ない。学校から帰って、ちょっとお菓子を食べたからあまりお腹すいてないんだ・・・。」 岬は軽くそう答えたのだが、それでも若林の目には岬のお腹が満たされた状態には見えず、反って心配がつのるばかりだった。 顔色が悪くないかと覗き込んだその時、岬の箸がテーブルに置かれた。 「ごちそうさまでした。」 テーブルの上のごはんとおかずは静かに台所へと運ばれた。 そして、そのまま何もいわず岬は自分の部屋へと消えていった。 若林は声を掛けようとしたのだが、どう言ったらいいかわわからず出来なかった。毎日これと似た状態が続いていて、何度か『どうした?』『何か悩みでもあるのか?』『受験勉強が上手くいってないのか?』と聞いてみたのだが、いつも岬は『なんでもない。』を繰り返した。 (学校で何かあったのだろうか・・・。) その疑問が頭から離れない若林は、岬の性格を考えて余計に分からなくなってしまうのだった。 (あの小学校の時の事故から岬の友達は岬を一層大事にしてくれて、岬もまたそれに応えようと回りにとても優しく接していて・・・友達とトラブルを起こすとも思えないし・・・。部活動も、受験生ということですでに行ってないはずだし、その受験だって先生から太鼓判を押してもらってたはずだ。学校関係のトラブルは想像できないなぁ・・・。) そう考えながら岬の消えた方を見ていたら、ついつい七年前のことを思い出してしまった。 ―大きくなったらサッカー選手になりたい―― そんな、小さな子どもの、大きな夢はある事故が原因で砕けてしまった。 友達を庇って階段からの転落。大勢の友達の下敷きになって走れなくなってしまった足。 それを知った時、岬は涙が枯れてしまうのではと思えるほど泣きに泣いた。若林もどう慰めていいのかわからずに病室の中をオロオロとするだけだった。 しかし、次の日にはこの子の凄さを若林は改めて感じることになった。 「僕、もう一杯泣いたから、大丈夫だよ。僕、一生懸命勉強するから、大きくなったらお兄ちゃんの会社に入れてね。」 明るくそう答えた小さな天使に、若林は一生大事に育てていこうと決めた。どんな困難からも俺が守ってやると誓った。 (こんなに小さなうちからがんばって、我慢することを覚えて・・・。岬が無理をしてもそれを支えてやろう。それを俺の仕事にしよう。) 決心するとあとは早かった。 退院と同時に若林は岬を自分のマンションに迎え、一緒に生活する事にした。当然回りは反対する声ばかりだったが、それでもこの小さな岬は自分を信じて付いてくると言った。それだけで若林は心強かった。どんな言葉にも中傷にもかまわずに立ち向かうことができた。 岬も、なかなか上手く動かすことが出来ない足を引きずりながらも、いつも若林の横で暖かな笑顔を絶やさずにいた。明るい声を聞かせてくれた。 確かに今まで住んでいた『南葛園』の方が皆と一緒で遥かに楽しくて賑やかなところだけれども、大勢の好機の目があった。でなければ同情というありがたくも迷惑な視線があった。心優しい年寄りが多いのだからそれも仕方がないのだが。 若林はそんな空気から岬を守ってやりたかった。学校ではさすがにそれを避ける事はできなかったが、それでも普段生活をしている間だけでも岬を静かな空間に住まわせたかった。そもそもサッカーをしていた時以外は、大体が一人か、または若林と過ごすことが多かったのだから。 そう思って始めた二人の生活。 しかし、普段は毎日家政婦が来てくれて家事など身の回りの世話をしてくれていても、小さな子どもが一人寂しく帰りの遅い若林を待つことは少なくなかった。家政婦は夕食の支度を済ますと暗くなる前にはマンションから帰ってしまっていたから・・・。 なるべく岬が寂しくないように。もっと楽しく暮らせるように。 そんな風に勤めながらも、でもどうしても帰りが遅くなってしまったことも多い。泊まりがけの仕事の為に、一人の夜を過ごさせたこともある。 (やっぱり、ずっと一人ぼっちが多かったし、俺にも言えないこととかあるんだろうな・・・。) 若林は自分の非力さに悔しい思いをした。 (岬が悩みを打ち明けてくれるような。そんな人間になりたい。) 若林は、改めてもっと岬に頼られる存在になりたいとそう思った。 形ばかりの食事を終え、岬はもう一度勉強でもしようかと机に向かった。教科書に手を延ばして、ノートを広げる。さっきは数学をしたので今度は英語でもしようと本棚にある辞書を取る為に椅子を立った。 が、ついそのまま元の位置に座り込んでしまう。 「・・・・・なんかやる気が起きないな・・・。」 教科書を意味もなくペラペラと捲ったがただ本当に捲っているだけで特に何をする訳でもなかった。 そのまま天井を仰ぎながら目を瞑る。 いつもいつも暖かな眼差しを向ける若林の顔が岬の脳裏に浮かんだ。とても優しそうな眼差しで岬を見つめてくれていた。しかし、その表情はどこか心配そうに歪んでいた。 (あんまり心配かけちゃいけないんだろうけど・・・。) でも、今の悩みは若林には言えなかった。その悩みの原因が何を隠そう、若林のことだからだ。どう聞かれようが言える訳がなかった。 (出来れば今すぐにでもここから出て行きたい。・・・・でも・・・。) でも、岬には今すぐここから出て行く勇気も、行く先もなかった。それでも岬にはここを出て行かなければならない理由があった。 二週間程前に見つけた、若林のお見合い相手の写真。 丁度彼の書斎を掃除していて見つけたもの。 いつもは家政婦さんが綺麗に掃除をしてくれるのだが、その日は、お世話になってるから『たまには自分がやる』と言って掃除を代わったのだ。 仕事の書類が散乱した机の上、仕方がないなぁといくつかの重要そうな書類の束をまとめて片付けていた時、その書類の中に見つけた。 「あ・・。」 (そうか、よく考えればそういう歳なんだよな。) 世間じゃそれが当たり前で、しかも、もう人によってはあわててしまう歳といっても過言ではない。岬はそれまで思いもつかなかった現実にでくわしてしまった。 そういえば、電話でいつも怒鳴っていた時は大概そんな内容のことを話していた気がする。あまり人の電話に聞き耳をたてるのは好きではなかったので、しっかりと聞いた事はなかったが。 そして、そんな電話が終わった後、大抵若林は岬の傍に来て時間を過ごしていたのを思い出した。 「やっぱり普通じゃないよね。・・・・普通がいいよね、お兄ちゃんの為には。」 ポツリとそう呟いて、机の上に広げた写真を見つめた。 若林財閥と言えば政界にも繋がりがある上に、会社も多種に渡って経営されていて、それが又、この不景気にも関係なく好成績を収めているのだからそれだけでもかなりの実力と規模の大きさを伺うことができる。 直接の跡継ぎでないとはいえ、そんなところの息子の一人であるのだから、いつまでも一人身ではこの財閥をまとめている父親としては、そしてその家族にはかなりの気がかりであるはずだ。 写真から岬を見つめるその女性は、とても綺麗な人で写真からだけでもその人の品の良さが感じられた。かなり良いところのお嬢様だろう。 若林と並べば、きっと誰から見ても『お似合いの二人だ』と言われることだろうし、確かに岬から見てもお似合いだと思った。 しかし、その写真が無造作に書類と一緒に置かれているということは、きっと若林には他の書類と同等の、仕事の一つ程度にしか感じていないのだろう。いや、いつも親と揉めているところから想像するなら、それ以下にしか思ってないかもしれない。 何故、誰でも大事に考えるだろう一生の問題にそんな扱いをしてしまうのか。その理由は考えるまでもなかった。すぐに想像ができた。 お兄ちゃんと慕う若林が幸せになる方法・・・。それが一つだけあることも、岬にはすぐにわかった。 その為に自分はどうすればいいか。 岬は自分が今の状況を変えて、お兄ちゃんとして慕っている若林になんとか幸せになってもらう。自分がいたらお兄ちゃんは幸せになれない。そんな気がした。 今、自分はまだ中学生で受験生で、誰かの庇護の下でないと生活がしていけない非力な存在だ。だが、これではいつまでたっても若林に結婚をしてもらう事は出来ない。 サッカー選手という夢はかなわなかったが、でも、まだ自分にはそれ以外にも夢や希望がある。その夢の一つは、お兄ちゃんに幸せになってもらうことだ。今まで自分を暖かく見守ってくれたお兄ちゃんに幸せになって欲しい。 その為にも自分はここから巣立っていかなくてはならない。 そして、学生である自分が出来ることは・・・。 散々考えた挙句岬の出した答えは、高校はここからではなく寮のある学校にしてそこから学校に通うことだった。このマンションで生活をするのではなく、寮生活にして、ここから離れること。 自立して中学卒業後すぐに働くことも考えてみたが、でもきっと若林はそれでは納得しないだろう。それならせめて若林が納得できるような出て行き方をしたかった。心配だってかけたくない。 岬は決心をすると若林の結婚相手になるだろう女性の写真をパタンと静かに閉じた。 あと、半年・・・。 半年後には遠くの高校を受験して、ここから出て、学校の寮に入って、一人で生活していく。 その為にも受験勉強をがんばらなくてはいけない。岬の決めた最初に志望していた学校よりも、寮のある高校はかなりランクが高く今の成績ではギリギリだった。しかし、失敗は許されない。不合格では話にならない。 頑張って勉強して、高校に受かって、ここから出て行く。 そう決めた。 しかし。 岬はその日から逆に勉強に身が入らなくなってしまった。 何故だか自分でもわからない。 学校の成績はなんとか下がることだけは免れたが現状維持の状態で、このままでは新たに希望する高校に合格するのはかなり厳しいだろうと先生に言われた。もう一度最初予定していた学校に変えないかとも言われた。 それでも元に戻す気は岬にはなかった。 (お兄ちゃんの為に・・・) なんとかしなくてはと思うのだが、思えば思うほど、余計勉強に集中できずに若林の困った顔が頭に浮かんだ。 (どうしたらいいんだろう。) 岬は今日何度か目のため息を吐いた。 暑さはさらに増し、学校は夏休みに入った。 今日は先日行われた地域一斉の実力模試の結果が出される日だった。進路指導のいわゆる三者懇談も兼ねての結果発表だった為、夏休みというのにもかまわず親も一緒に学校に行かねばならなかった。 岬はもちろん一人で行くつもりだったが、たまたま若林が仕事がないからと付いて来ることになってしまった。 まだ受験予定の学校を変更したことを若林に言ってなかった岬は内心困ってしまったが、思い直し、学校を変更したことを言うのに丁度いいからと付いて来てもらうことにした。 「やっぱり親子に見えちまうかな・・・。」 「そんなことないよ。お兄ちゃんでしょ・・・。」 苦笑いする若林に明るく笑い返すことが出来なかった岬は、それでもなんとか元気があるような素振りを見せて学校に入った。 (きっと何かお兄ちゃんに言われるんだろうな。) 今まで希望の学校の変更を黙っていたのだから、それは予想できることだった。 ガラッと教室のドアを開け、岬、若林と順に中に入った。 若林は教室を眺めながらゆっくりと進んだ。黒板を見ると、日付や日直の字が目についた。その横には時間割りが壁に貼ってある。昔とかわらないなと妙に懐かしさを感じていたら、どうぞと声が掛かった。 担任の先生が教室の中央で二人を待っていて、若林はあわてて先生の前に座った。 優しそうな雰囲気の若い先生だった。見ようによってはちょっと頼りなさそうな感じもしたが、しかし話し出すその様子はしっかりとしたものだった。 「さっそくですが、先日行われた模試の結果です。こちらを見てください。」 ぱらぱらと数字の書いてある表やグラフをめくりながら話を進めていく。内容的には今の希望する学校にはかなり難しいということだったが、若林はそれがちょっと引っ掛かった。 横に座っていた岬は俯いたままだった。 (以前の話だと希望する学校には問題なく入れそうな話だったのだが、成績が落ちたのか?) しかし、先生の話に成績が落ちたという言葉はない。不思議に思っていたら、一つの書類が目に留まった。 岬が希望を出している高校の名前が書かれている用紙だった。 (あれ?前、聞いたのと違うような・・・。) 気になった若林は先生の話を中断させてしまうのも構わず、伺ってみた。 「あぁ、聞いてませんでしたか?先月変えたんですよ、希望校。前のところも元々レベルの高いところなので無理はしなくてもいいと言ったのですが、こちらにしたいって本人たっての希望だったので。まぁ、がんばれば入れないところでもないですしね・・・。ただ、今の成績のままではちょっと厳しいのは確かなのでもう少し頑張って欲しいと思うのですが・・・。」 そうあっさり答えられてしまって、若林は呆然としてしまった。それ以降、先生の話はただ静かに流れているだけで若林の耳には入っていかなかった。 岬は、やはり黙って俯いたままだった。 「一体どういうつもりなんだ。聞いてないぞ、学校を変えたこと。」 「ごめんなさい・・・。どうしても最初のところじゃ、嫌になって・・・・。」 「どうして言わないんだ。何故黙ってたんだ!大事なことじゃないか!!」 家に帰るなり若林は怒りを押さえることが出来ず、岬を問い詰めた。 「ごめんなさい・・・。」 しかし、岬にはただ謝るしかなかった。 それを見て、若林はそれ以上岬を責めることが出来なくなってしまった。 「俺には相談もできないのか?俺じゃぁ、頼りにならないのか?俺はお前が一人前の大人になるまできちんと面倒を見るつもりでこうやって一緒にいるのに・・・。」 若林はネクタイをはずしながら、ゆっくりとソファに座った。ソファの軋む音がした。 「だから・・・。」 ポツリと岬は呟いた。 岬のすぐ後ろの掛け時計が六時を知らせる為に音を奏でる。ガーシュインの『ラプソディ・インブルー』が綺麗なオルゴールの音となって流れた。 そのメロディの音でかき消されてしまうかのような小さな声でしか岬は話せなかった。 「僕は・・・・お兄ちゃんの・・迷惑だから・・・。僕がいることでお兄ちゃんは結婚もできなくて・・・。お兄ちゃんは、家族や皆からいろいろと言われてるんでしょう。だから・・・僕がいなければ・・・お兄ちゃんは幸せになれるから・・・。だから・・・。」 若林は目を細めた。 突然何を言い出すのかと思えば。 もうすでに岬の声は涙声になっていてよく聞き取れなかったけれど、若林には岬の言いたい事がわかった。 岬は苦しそうに胸を押さえていた。 (迷惑だなんて・・・・そんなこと一度も思ったことなかったのに・・・・それどころか、岬と一緒にいることこそが俺の幸せなのに。岬だっていつも幸せそうな笑顔を見せてくれてたのに、それは俺の見間違いだったのか?一体何故、そんなことを思うようになったんだ。いや、いつからそう重荷に思うようになったんだ・・・。) 「岬・・・。」 若林は、岬の肩に手を乗せて何かを言おうとした。が、逆に思ってもみなかった言葉を岬の口から聞いた。 「あの書斎にある綺麗な写真の人。・・・あの人なら、絶対お兄ちゃん、幸せになれるから、きっとなれると思うから、だから、結婚して!そうすればお兄ちゃんきっと幸せになれるよ。」 若林は胸に熱いものが込み上げてくると同時に、悲壮な思いも溢れてきた。 (これが岬の優しさなのだろうけど・・・・しかし、岬は・・・俺の気持ちはわからないんだろうな。・・・・まぁ、仕方ないか。こうやって十年近くも一緒に普通の家族のように過ごしてきたんだから・・・。ある意味、俺の演技力の力か?) 苦笑いを隠せない若林は、だがしかし、その表情を岬に向けることなく岬の言葉に答えることにした。これが大人ってヤツかなと妙な納得をしながら。 「岬は俺が結婚した方がいいと思うなら、そうしようかな・・・。その方が岬も幸せになれるのなら・・、結婚してもいいと思う。」 パッと今まで俯いていた岬の顔が若林の顔を捉えた。目を見開いて驚いている。 若林は、彼が今できうる限りの暖かい表情でその目の前にいる愛しい者に答えた。 「ほんと・・・?」 「あぁ、それが岬の幸せに繋がるのなら。」 そっと指先で涙を拭ってやる。 「来週にでも、その女性と会うよ。・・・ただし・・・。」 「ただし・・・何?お兄ちゃん。」 「条件がある。」 「?」 キョトンとした岬にニッコリと笑いかける。 「その女性と会うこと。・・・それと岬はここから高校に通う事。それが条件だ。」 「でも・・・!」 サッと表情が変わるのを若林はゆっくりと宥める様に続けた。 「岬がここを出て寮に入るぐらいなら、俺がここから出て行く。岬は怒るかもしれないが、岬とまったく関係のない赤の他人にはなりたくないんだ。岬がここにいればずっと繋がっていることができるだろう?それに岬には何か残しておきたいし・・・。ちゃんと家政婦にも今まで通り来てもらう。しばらくは一人になって寂しいかもしれないが、なんだったら友達に遊びに来てもらえばいい。岬が嫌なら仕方ないが、でも俺は岬に何かしたい。ダメか?」 岬は困ったような、それでいてうれしそうな複雑な顔をしながら聞いていた。どう返事をしていいかわからない様子だった。 フゥと若林はため息を吐いた。 「そうだな。急に言われても困るな。次の進路指導はいつだっけ?」 「学校始まったらすぐ・・・。」 「じゃあ、それまでに考えておけばいい。それと、相手の人に会うのは、いいか?」 「いいのかな・・。僕なんて関係のない人間なのに・・・。」 若林はポンポンと軽く岬の頭を叩いた。 「俺にはお前が弟みたいなものだからな。遠慮することはないさ。なんだったら、親父達と違う場所で会えばいい。」 「・・・うん・・。」 岬には若林の考えがよくわからなくて、今はただ肯くしかなかった。 それでもその一ヶ月後、岬は街でも一番格が高いと評判のホテルの庭を歩いていた。 暦の上では秋になっていたが、この日はいつもより暑く、今、庭の木陰が多くて助かってはいるものの日に当たれば、かなりの汗が流れるだろう。 岬は手を翳して空を仰ぐと眩しそうに瞬きをした。 岬はここにいるのが自分でも不思議だと思った。何故、自分はここにいるのだろう?わからなかった。 若林は相手の女性に会って欲しいと言っていたが、自分はこの二人の生活に踏み込むつもりはない。なのに・・・何故。考えても考えても答えは出なかった。会えば答えは出るのだろうか?会えば何かわかるのだろうか? 遠くに見えるホテルのロビーでは数多くの人達が出入りしていた。今日は日柄がいいのだろうか、『結婚式』の看板も見受けられた。普段なら値段もかなりするホテルの為、あまり客も多くはないのに。 学校もすでに始まっていた為、岬は平日会えないということでわざわざ日曜日にデートと称して若林は相手の女性を呼び出したようだ。 もう、若林と相手の女性は顔合わせ、すなわちお見合いは終わっており、話も両方の親がほくほく喜びそうなほど順調に進んでいた。ただひとつ、若林の本心を除けば、事は年内にでも決まりそうな具合だった。 「岬っ。」 さすがこのホテルは庭が広いなぁとぼうっと橋の上から池の鯉を眺めていたら後ろから声が掛かった。 ゆっくりと振り返ると、若林がすぐそこに立っていた。隣には写真で見たあの綺麗な女性も一緒に立っていた。淡いピンクのワンピースが似合っていて、池から反射する光によく映えていて、彼女の美しさをより一層際立たせていた。 さずがお嬢様というだけあってそこにいるだけで回りの空気が澄んでいるようなそんな雰囲気まで醸し出していた。 若林だって、元々財閥の人間なのだからやはり凡人にはない要素を含んでいるのだが岬はいつも一緒にいた為、気づいてなかった。しかし、二人一緒にいるところを見るとやはり世界の違う人間なのだと岬は改めて気が付いた。 二人を見つめて固まってしまった岬を動かしたのは、隣の女性の声だった。 「こんにちは。貴方が岬さんね。源三さんから、話は聞いたわ。弟みたいな方だって。大変ね、足が悪いんでしょう?私も貴方のこと、大事にさせてもらうわ。よろしくね。」 岬はそのちょっと高い声にカチンときた。本人は悪気があるつもりで言ってるのではないのだろうが。 でも。 何故、初対面のこの女の人にこんなこと言われなくてはいけないのか。何故、自分は若林にこんな人と結婚して欲しいと思ったのか。すでに隣にいるのが当たり前という風に立っている女性を見て、岬は一瞬で今までのことを後悔した。 と、同時に・・・フッと。 自分の奥底にある本当の心に気が付いた。 こんな女にお兄ちゃんを渡したくない。どこのお嬢様だかなんだか知らないが、こんな女との結婚を進めるぐらいなら、自分が代わりに一生お兄ちゃんの世話をする。 「嫌だ・・・。こんな人、嫌だ・・・。」 そう呟くなり岬は走り出した。 あっけにとられる若林とその女性を残して岬はホテルを出て行ってしまった。 (どうして、僕の意見を鵜呑みにしたんだ。どうして、見合いをしたんだ。どうして!『相手の女性に会う』ことを約束させたんだ。) どうして、僕に気づかせたんだ!! ―――若林源三が好き。――― 今までずっと傍にいてくれて、ずっと親の代わりをしてくれて、ずっと暖かく見守ってくれて、ずっと・・・。 好きなのは親として、お兄ちゃんとして、家族として・・・。 そう思っていたはずなのに、自分はずっとそういう目で見てきたはずのに、それは違った。 好きなのは家族としてではなく、一人の男として若林源三が好きなのだ。初めて会ったときからずっと・・・。そんなことに気づかずに、ずっと当たり前のように傍にいた。 岬は今初めて自分の恋に気が付いた。 (どうしよう・・・) 自分の気持ちを自覚したとたん、岬はどうしたら良いかわからなくなってしまった。どうしたら今までの自分の行動の数々を取り消せるのか。どうしたら吐いたセリフをなかったものにできるのか。もう何もわからなかった。 (どうしたら・・・いいの?お兄ちゃん・・・) 岬には、ただ今はベッドの上で泣き崩れるしかなかった。 枕にいくつもの涙の染みをつくるしかなかった。 それからどれぐらいの時間が経ったのだろうか。 気が付くと窓から見える空は真っ暗になっていて、遠くに星が輝いているのがわかった。部屋の中も暗く、外はただ静かだった。 「あれから・・・寝ちゃったんだ。」 岬はのそりと体を起こした。頭を持ち上げると少し重かった。 「明日の用意しなきゃ・・・。」 明日はまた、学校がある。明日の朝までに普通に戻っておかなくては・・・。 そう思ってお風呂の用意でもしようとベッドから降りた。昼食も夕食も食べてなかったが、お腹は空いてなかった。 ギイッと部屋のドアを開けた。体だけでなく、家のドアまで重くなったように岬には感じられた。 ゆっくりと開いたドアの向こうから明るい光が廊下を通して部屋の中に差し込んできた。 「あ・・・・。」 廊下を出ると、その向こうのリビングから電気が皓々とついているのがわかった。 瞬間どうしようかと足を止めたその時、リビングから人影が現れた。向こうも部屋を出ようとしたのか、ドアを開けたところだった。 お互いの存在に気が付いて。 「おっ、起きたか?さっき帰った時、部屋を覗いたら寝てたからそのままにしておいたが。お腹すいたろ?夕食の用意、出来てるぞ。こっち来いよ。」 あっけらかんと明るく言う若林に、岬はどう対応していいかわからずに立ち止まったままだった。 その様子にクスッと笑うと、若林は岬を安心させるように優しい笑みを見せる。 「昼間のことなら心配ないから・・。断ったから、安心しろ。」 えっ、と岬は聞こえたか聞こえないかわからないぐらいの声を出した。 「だから、お付き合いを断ったんだよ。わかったか?」 岬の眉が跳ね上がった。 「どういうこと・・・?」 「どうもこうも、お前は反対なんだろう?だったら断るしかないだろう。あれ?違ったか?」 事の重大さを認識していない軽さで話す若林に岬は本当に怒れてしまった。いや、怒っているのはこんなことをさせてしまった自分にかもしれない。 「だって、こんな大事なこと!!」 「前にも、言っただろう?岬が幸せになれるなら、結婚するって。でもそうじゃなかったなら、しないさ。」 「どうして?どうして、お兄ちゃんは僕のことばかりこんなに・・・。大事にしてくれるのはうれしいけど・・・、でも・・・。」 「そ・・・それは・・・。」 口篭る若林にさらに岬は畳み掛けた。 「それにずるいよ、お兄ちゃんは!あんなことして、僕に気づかせるなんて!!」 「え・・・?」 「お兄ちゃんはズルイ・・・。」 そう言うのが精一杯なのか、岬はそれ以後しばらく黙ってしまった。 「岬・・・。」 若林は俯いて黙ってしまった岬の頬を両手で包んでそっと顔を持ち上げる。 さっき、漸く泣き止んだはずなのに岬の目には、また涙が溢れてきた。人間とは、どこにこんなに涙があるのか不思議だ。流れ出したら、また止まらなくなってしまった。あとからあとから溢れてきた。 それを見た若林はそっと岬を抱きしめて、少しづつその力を込めていく。岬はすっぽりと若林の腕の中に収まってしまった。 岬は少し震えながら若林のシャツを握り締めていた。 「岬・・・。俺の何処がズルイのか教えてくれないか・・・。」 若林の方から答えを促すと、唇を噛み締めて何も言えなくなってしまっていた岬は、やっとの思いで口を開いた。 「・・・僕、・・・・今まで気づかなかったのに・・・。気づいちゃったんだ。気づかせたのはお兄ちゃんだよ!お兄ちゃんの所為でわかっちゃったんだ。」 岬はゴクリと唾を飲む音が聞こえた気がした。それは自分の出した音だったのか、それとも若林の。 「好きなんだ・・・。」 シャツを握る手にさらに力が篭る。 「お兄ちゃんが・・・、若林源三が好きなんだ・・・。」 若林は十年近く秘めていた恋が実った事を今初めて知った。 「ずっと一緒にいよう。」 それは若林の言葉だったのか、岬の言葉だったのかお互いわからなかった。 END |