過去と今と未来と2−9
明け方、サンジとマリアは、肩を並べて店の前に立った。 店の明りは一晩中消えることはなかったのだろう。朝日に照らされても、窓から漏れる明りはすぐにわかった。 ゆっくりと扉に手を掛ける。カランと扉についているベルの音が鳴ったことで帰宅したのがわかったのだろう、身体が扉を抜ける前に声が掛かった。 慌てて駆け寄って来たのだろう、ガタリと何かがぶつかる音がした。どこかに身体をぶつけただろうイネストロが、腰を摩りながら扉の中に入った二人の前に立つ。 「マリア・・・・・。」 イネストロは、マリアの格好を見て、愕然とした。 スカートは泥汚れており、裾がボロボロだ。目線を上げれば、やはりボロボロに薄汚れているのがわかるが、それだけではなく破られたと容易にわかる様相が見られた。 サンジの上着を羽織っている事で多少隠されていた暴行の跡は、それでも父親にはっきりと其処で何があったのか如実に知らせていた。 「なってこった・・・・。」 イネストロは頭を抱えて蹲るしかなった。 「すみません・・・・・。」 サンジとしても『必ずマリアを無事にここに帰す』と言った手前、一目見てわかる惨状に只管謝るしかなかった。 しかもだ、連絡は入れたといえ、結局ここに帰って来たのは日が昇りだした時間帯である。その後のことも父親には考えたくも無い出来事を伝えなければならない。 「お父さん・・・・あたし・・・。」 マリアの口から零れるその事実は、男として自分から言わなければならないだろう。 サンジはマリアを手で制した。サンジを見上げるマリアは不安そうだ。 サンジは、ジョーの元へ訪れる以上に緊張を要した。 蹲るイネストロにサンジは腰を折り、手をついた。 「俺は貴方との約束を果たすことができなかった。・・・・確かにここには帰ってこれたが、俺が約束したのは、『彼女を無事にここに連れて帰る』ということだ。見て分かる通り、到底無事に、とは言えない状況だ。」 イネストロは俯いていた顔を上げたが、生気を失っており、まるで死人のように青白い。 これ以上のことを告げるのは酷だが、言わないわけにはいかないだろう。サンジは唇を噛み締める。 「・・・・・・・しかも、電々虫で連絡してからかなり経つ。貴方が一晩待っていた間、俺はマリアを抱いていたんだ。」 瞬間、バキッと音がして、気が付けばサンジは壁にぶつかっていた。殴り飛ばされた勢いは半端ではなかった。 マリアは息を飲む。いつも穏やかでめったに人を怒ることのない、暴力とは無縁の父親が拳を振るうのを始めて見たのだ。 くわっとイネストロの目が見開いていた。サンジの言葉を予想していただろうが、やはりショックは隠しきれないようだ。 「サンジ・・・・お前・・・・。」 怒りに震える父親をマリアは慌てて止めに入る。 「待って、お父さん!私が・・・・・私が悪いの!サンジは悪くないわっっ!!」 殴られた衝撃はかなりのものだったらしく、サンジはぶつかった壁に凭れて座り込む。 そこに、さらに拳を振り上げる父親に泣いて縋った。 「私がサンジにお願いしたの、抱いてって!サンジは私の我侭を聞いてくれただけなの。サンジは悪くないから。お願い、サンジを殴らないで!」 「・・・・・・!」 わなわなと震える父親に、サンジはもう一度頭を下げる。 「元はと言えば、マリアをこんな目に合わせたのは俺の責任だ。貴方の気の済むまで俺を殴ってくれていい。どうせ記憶もない、どこの馬の骨ともわからない人間だ。殴り殺して海に捨ててくれても構わない。」 口から血を流しながら深々と頭を下げるサンジにイネストロの拳がグオッと振り下ろされた。 「止めて、お父さん!」 マリアの悲鳴と共に、ガンッと音が店内に響いた。 サンジの脇を掠めた拳は血を床に広げた。 「お父さん・・・・。」 拳を床に叩きつけたまま、イネストロの膝がガクリと崩れた。 「わかっちゃいるんだ・・・・。わかっているんだ。・・・・・・サンジ、お前が悪いわけじゃない。今帰って来たのも、マリアにとっては時間が必要だったからだってことも。・・・お前には確かに記憶はないし、どこの人間かわからないがないが、マリアには大切な人間になってしまったことも、お前が本当に誠実な人間だってことも、全て分かっているんだ・・・・。」 「おやっさん・・・・。」 のそりと立ち上がる姿は、まるで先ほど拳を振るった男と違いって今度こそ魂が抜かれた幽霊のようだった。マリアはそっと父親に手を添える。 「今日は臨時休業だ・・・。暫く休ませてくれ、疲れた。」 「はい・・・。」 頷く二人に背を向けたイネストロは思い出したように、振り返った。 「ジョーの方は・・・・?」 「夕べ、電々虫で話した通り、ケリをつけました。」 「・・・・・・・夕べは、かなり遅くまで皆、お前達を待っていたんだ。常連のみんな、心配してくれてなぁ・・・。改めて皆にお礼を言わにゃならん。」 一度は背中を見せたはずのイネストロは、二人を改めて見つめた。 「サンジ・・・・。お前、ずっとここにいるつもりはあるか?」 「おやっさんとマリアが許してくれれば・・・・。」 疲れた果てた顔にも目だけは、一瞬真剣にサンジを見つめた。 サンジは、イネストロの況とするところがわかった。 「マリアのこと、好きか?」 「はい。」 「いい加減な気持ちじゃないか?」 「はい。」 サンジの目を見て、イネストロはほぅと息を吐いた。 「早くに母親を亡くして男手一つで育てちまったから、我侭娘になってしまったが・・・。親バカと言われるかもしれんが、可愛い娘なんだ。よろしく頼む。」 「おやっさん。」 「マリアには幸せになってもらいたいんだ。」 「・・・・・わかってます。」 サンジの答えを聞くと安心したのか、ずっと握っていた拳が緩んだ。 そのままイネストロは、ゆっくりと自室へと入っていった。 暫くして、静寂が辺りを包んだ。 朝日は昇りきっていたが、まだ早い時間帯である明らかな早朝。 イネストロが出て行った店内はシーンと静まり返っていた。 静寂を破るようにマリアがサンジの名を呼んだ。 「・・・・・サンジ。」 「マリア、俺はこのまま記憶が戻らないかもしれない。でも、もしかしたら、記憶が戻るかもしれない。それは、わからない。」 コクリとマリアは頷いた。 「コックだったという以外、何もわからないんだ。・・・・例えば・・・ジョーのような荒触者だったかもしれない、いや、それ以上に・・・・例えば、海賊だったかもしれない。」 「構わないわ、サンジはサンジだもの。」 「俺を拾って、後悔していない?」 「していないわ・・・・、寧ろ、この出会いに感謝しているのよ?」 ゆっくりと目を閉じて身体を委ねるマリアをサンジは静かに抱きしめた。 サンジにとってもマリアにとっても悪夢のような一晩が漸く終わりを告げた。 二人にとってはまったく長い長い一日だった。 静かに身体を預けたマリアを抱く手に力を込めて、サンジは自分も今日一日ゆっくり休もうと思った。 マリアもだろうが、サンジは本当に疲れたと思った。 だが、明日からは改めて今日のように疲れた日もその疲れを取ってくれる人と共に過すのだ。 記憶は戻らないかもしれない。だが、それでいい、と思えた。いっそのこと、戻らない方がいいのかもしれない。 記憶がなくなる前は男の恋人がいて料理人ということしかわかっていない。 それ以外は、どこにいたのか、どんな人達に料理を食べてもらっていたのか、恋人以外にはどんな人達と生活していたのか。何を夢見て過してきたのか。どうして悪人に追われていたのか。 何一つわからなけれど。 ずっとずっと、この島で、この小さな店で、大切な人とその家族と、そして自分の料理をおいしく食してくれる人達と、静かに過していくのも悪くない、とサンジは思う。 今までと同じのようで同じではないその大切な存在を確かめるように、サンジは彼女を抱きしめた。 |
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2006.12.04.