膿 ー10ー
帰りの車の中は、行きより更に静かだった。 まるで葬式帰りだ。 今だ、どう声を掛けてよいのか、わからない。若林はただまっすぐ前だけを見詰めてハンドルを握るしかなかった。 どうにかして、「帰りは俺が運転する。」とだけ告げることが出来た。それだけでも上出来かもしれない。 岬は寝ているのか、本当に静かだった。声も発しなければ、動きもしない。窓にただ凭れている。若林からは顔が見えないのでその様子はわからない。それでも、寝ていれば寝息で判りそうなものだが、あえて若林も必要以上に様子を伺うことはしなかった。 例え寝ていなくても、疲れているだろうし、かといって、優しい言葉の一つもかけてやることは出来ない。 本当に岬が望んでしていることではないとわかっていても、許せないものは許せないのだ。 若林は握るハンドルに意識を持って車の動きを滑らかに運転した。 何回かに分けてブレーキを踏む。ゆっくりと止まった車はやはり静かに宿舎の駐車場でエンジンを切った。 止まっても少しも動かない岬はやはり寝ているのだろう。 このままずっと車の中にいるわけにもいかないので、起こそうと肩に手をかける。が、肩に手を掛ける前にどうしても躊躇してしまう。 わずかに緊張した空気を読んだのか。突然ムクリと起き上がった。 それともやはり元々起きていたのだろうか、サラリと髪を揺らして岬が動く。 「大丈夫・・・。起きてるよ。」 声はどう見ても寝起きを表している。 岬の視線は若林が躊躇して止められた手を捕らえていた。その眼はまるで今にも泣きそうだ。 「あ・・・。」 咄嗟に出た声も岬をさらに追い詰める。 若林にはそんなつもりはなかったのだが本音が表に表れてしまったのだろうか。岬には若林が自分をまるで汚らわしい者でも相手にしていると思ったのだろう。 今度はハッキリとした声で若林に言う。体も向き合ったが、その2人の距離は車のシートの寸法では到底図れないほど遠い距離だ。 「これでわかったでしょ・・・。もう、僕に構わないでね。」 今にも泣きそうだった瞳はいつの間にか妖艶な男娼のものに変わっていた。 切ったのだ。 たった今、岬は、自分と若林の関係を切ったのだ。 きっと表向きは今まで通り、サッカーの仲間、同じ日本チームの一員として行動するだろう。でなければあらぬところから「どうした」「何があった」と余計な詮索が入るかもしれない。 でも、裏では。 きっと裏では、すれ違っても気が付かない。目の前でどんなことを言っていようか、どんなことをしていようが、知らぬ存ぜぬで、相手が視界に写らない関係になるのだ。 日向のように。 日向はそれを受諾した。日向の本心は本当にはわからないが、お互い眼に見えない契約を交わしたのだ。お互いとお互いの大切な者の為に。 それが良い悪い、したいしたくないを別にして、必要なことだから。 そして、俺も・・・。 俺も日向同様にたった今、眼に見えない契約を交わすことになる。 あれだけの物を見せ付けながら(正確には聞かされながら)、知らないことになるのだ。今日、若林は早々に寝ていたことになるのだ。何処にも行っていないことになるのだ。 望むところじゃないか! だが。 これでいいのか?岬を嫌う気持ちも本当だが、それでも、本当にこれでいいのか? 嫌いだから、俺も切るのか! ぐるぐると目が回りそうになるのを耐え、考える。 「ただ、今日は2人一緒に出かけてしまったから・・・・。ないとは思うけど、誰かに聞かれたら『寝付けなかった僕に君が付き合ってドライブしていた』ってことにでもしてくれない?」 指を顎にかけ、首を傾げて言う。表情はなかったが、これも人から言わせれば媚びているように取られるのだろうか? あぁ、いや、一緒に出かけていたことになるなら、とりあえず、今日は一緒に行動していたことになるのか。ひとりで早々に寝ていたことにはならないのか。何処にも行っていないことには、ならないのか。 どうでもいいことまで考えてしまう。問題はそこではないのに。 「じゃ、そういうことで・・・。車、降りようか・・・。」 勝手に返答を決め、勝手に先に進もうとする。 まてまて、俺は今考えているんだ。 「待て!」 咄嗟に若林はドアを開けようとした岬の腕をつかんだ。 と、返答に躊躇した理由を突然思い出し、腕を掴んだまま固まってしまった。 思い出してしまったのだ。 あのホテルでの岬を。 入る前のあの妖艶な顔だけでなく、隠れていた部屋にいる間、壁の向うから聞こえてきた岬の声を。直接触れていたわけではないのに・・・。 岬は、若林がこれを見る(聞く)ことによってきっと岬のことを嫌悪し、軽蔑することになると言った。 実際に岬の声を聞いていて嫌悪感は留まることなく湧いてきた。 しかし、それは岬に対してだけではなく。 俺は、何を言おうとしているのか! 岬の声で煽られた自分。岬の霰もない姿を想像して吐いてしまった精。 若林のありとあらゆる神経が姿態を曝す頭の中の岬に向かって集中し、研ぎ澄まされていった。これ以上ないほどに。 気を緩めば、この場で押し倒しても不思議ではないほどに岬を欲してしまっている。 そんな自分にも吐き気がし、嫌悪した。 そうだ。 岬にだけではなく、自分への嫌悪。 己の手の中に精を出した瞬間浮かんだ後悔は自己嫌悪だったのに、それに今漸く若林は気が付いた。 自覚はしたものの、若林は岬を欲っしてしまった自分を素直に認めればいいのだろうが、それはまた別物で、まだ容易に出来る事ではなかった。 ただ岬に煽られたものだと思っている。 腕を掴んだまま動かなくなった若林を岬は訝しんだ。 若林を覗き込む。 「手・・・離してくんない?」 はっ 声をかけられ慌てて手を離した。 岬は不審げに握られていた腕を振って痛みを逃がしている。かなり強く握っていたらしい。 「す・・・・すまんっ!」 睨みつけるその瞳は困惑を隠せない。 それはそうだ。何を言うでもなく、ただただ腕を握り締めて見つめられて。 岬は、もう先のホテルを出る際には若林には嫌われてしまったと考えている。いや、そんな生易しいものではなく、酷く言えば憎き親の敵ぐらいに思われているかもしれない。 それだけサッカーというスポーツを冒涜していることをしている。 酷く罵られ、あまつさえ殴られても文句は言えない。 それなのに、若林はただ見つめるだけだった。 何が言いたいのだろう? 岬には若林の考えがまったくわからなかった。 それでも、岬は当初の予定通り、若林との仲間としての信頼、友情。もろもろの感情を切る作業を続けた。 「行くよ。」 何か告げたそうにしている若林を置いて先に車を降りる岬に再度腕を掴む動作をしようとして、止めた。 実際、若林はどう処理していいかわからないまま自分の感情に振り回されていた。 俺は岬を殴ろうとしたのだろうか?それとも・・・・? どうしたかったのだろう・・・。 今は岬の所有物と化している車を気にも止めず、若林を車に置いて岬は先に宿舎へと向かう。 ただそれを見つめることしか若林には出来なかった。 若林が部屋に入ると、部屋には誰もいなかった。シーンと静まりかえっている。もちろん明りもついていない。 ありがたいことに若島津はいなかった。どうやらまた日向のところにでも行っているのだろう。 もしかして日向が察して若島津を自分の部屋へ足止めしておいてくれたのかもしれない。 日向に感謝するべきか? ベッドに腰掛けながら苦笑して顔を伏せる。両手で顔を覆い、止め処なくため息が指の間から漏れた。 疲れたと思う。 いつもの練習など比べ物にならないくらいに若林は疲れていた。 明日から普通に過せるのだろうか? 帰りは惰性したまま会話もなく宿舎に着いた。 で、車を止めたとたん、あれだ。 岬を憎み、自分を嫌悪し。 どう処理していいのか、わからない感情に振り回されている。イライラと落ち着かないのは、部屋に戻った今も同じだ。 ありとあらゆる感情が渦巻く中で、ずっと頭から離れられないことがあった。 響き渡る岬の声。「もっと!」と強請り、最後には、悲鳴に近かった喘ぎ声。 今夜は寝られない。 |
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私も後悔・・・。