膿 ー11ー
ふと、顔を上げると、カーテンの隙間から朝日が射していた。 ベッドに入ったのはいいが、若林はやはり、あれからほとんど寝ることが出来なった。 目を瞑ると、実際には見ていないのに、岬の露わな身体が若林に迫ってくる。瞼の裏の岬は、切羽詰った声音をして、強請り、身体を揺すり、指を絡めて若林を求めてきた。 「くそっ!」 軽く舌打ちし、ゴソゴソとベッドから這い出した。縁に腰掛け、項垂れると幻に惑わされた下半身が目に入った。思わず両手で顔を覆ってしまう。 若島津は結局部屋には帰ってこなかった。たぶん、日向の部屋でそのまま寝てしまったんだろう。 就寝前に話し込んでそのまま。仲の良いチームメイト同士ではよくあることだ。気にすることはではないし、ましてや夕べのことを考えるとありがたかった。 寝ることも出来ずに、モンモンと唸るだけの若林に、きっと若島津は訝しむだろうから。 かといって、今日一日、上手く過す自信が若林にはなかった。 しかし、練習を休むわけにはいかないし。 結局、暫く考えに考えたがどうすることもできないまま、朝食の時間になってしまった。 とりあえず、部屋に据え付けられている鏡を覗き込む。 隈が出来ていないだろうか心配だったが、多少疲れた顔色をしているものの、なんとかごまかせそうな表情を引き攣った笑いで確認した。すでに憤っていた分身も治まった。 若林は着替えもとりあえず、食堂に向かう。 さっさと食事を済ませてしまえば、岬と顔を会わせなくて済むと思ったからだ。 パタパタとスリッパの音を立てて、足を運ぶ。食堂を間近にすると朝から賑やかしい声が響き渡っていた。 あぁ、翼か。朝から元気なヤツだ。 と、若林は苦笑する。あの声を聞くと何故だかホッとした。心が落ち着くといったら大袈裟かもしれないが、そうなのだ。あの笑顔にいつも安心させられる。たとえどんな窮地に陥っても、そうやって今まで数々の困難な試合を乗り越えてきた。 それは試合でない今も同じ事。あの翼の顔を見れば、いつもの自分に戻れると若林は思った。 食堂に足を踏み入れ、賑やかしい声のする方向へと向かい、人だかりになっている彼の傍へと寄った。本当にいつも彼の周りには人が絶えない。みんな、あの笑顔と安心感に引き寄せられるのだろう。 ふ、と輪になっている人だかりの中心がこちらを向いた。それに釣られて回りにいる人間も一緒になって若林を見つめる。みんなニコニコしている。 いつも翼の回りは笑顔だが、なぜだか、当の翼は膨れっ面だ。しかも、回りの笑顔と膨れっ面は自分に向かって向けられるいる。一体何事だ?と若林が反した怪訝な顔をする。 俺、何かしたっけ? 考えたが、翼が怒るようなことは何一つしていないはずだ。真剣に怒っている表情ではないにしろ、翼が膨れるようなことをした覚えはまったくない。一体何を膨れているのか。 そこで初めて翼のすぐ横にいる人物に目が止まった。 岬・・・・。 どうやら若林の『岬に会わないで済む』という考えはまったくもって失敗だった。彼はいつも早起きの部類に入るのを今更ながらに思い出す。こんなことなら、ゆっくりと着替えでもしてから、ここに来るのだったと軽く舌打ちする。 何で、すでにここにいるんだ。 自分が普段遅いことを棚上げで、相手を内心攻める。叶うはずもないのに、会いたくない、とついつい思ってしまう。 しかし、それを翼やみんなに悟られる訳にはいかない。あえて内に秘めておくように若林は勤めた。もちろん岬も同様なので、特に改まった反応はしていない。ただ無表情を貫いているようだ。回りにいる皆は気が付いていないが、若林だけには、岬のその表情の意味まで知っているので尚更それを冷たく感じてしまうのは、仕方がないことかもしれない。 それどころか、逆に若林の方こそ、岬を無視するなり、気が付かない振りをするなり、したいと考えてしまう。 お互いの内を知ってか知らずか、翼が先ほどから膨れっ面を変えずにいるが、吐いたセリフはおどけていると受け取れるものだった。 「まったくもう、若林くんたら〜。ずるいよ!2人だけで出かけるなんて!!僕にも言ってよね!」 翼からは、先ほど自分達が話している内容の続きということで、辻褄があっているのだろうが、文句を言われた若林は何に対して苦情を訴えているのかがわからなかった。 「は?」 「だからぁ〜。」 膨れっ面は当に消えうせているのだが、言いたいことはやはり文句の類だった。 「ゆ・う・べ。 出かけたんでしょう?岬くんと・・・。」 「な・・・・なんで、それをっ!」 いきなり核心をつく言葉にドキリとする。 目が泳いでしまう若林だが、突付く翼からはそれをおもしろがっている風にも取られた。 キョロキョロする視線の中に岬を盗み見すると、当事者の1人である岬は重いため息を吐いているようだった。が、それも回りは誰も気にも留めない。皆の視線は翼と若林に注がれている。 「若島津くんが、気が付いたんだよ。若林くんが部屋にいないことに・・・。で、最初1人で出かけたのかとも思ったけど、もしかして〜と、思って俺も自分の部屋を確認しに行ったら、どうやら岬くんも出かけた様子だったし。」 「で、何処行ってたんだよ、若林?深夜のデートってわけじゃないだろう?」 言葉を繋げたのは、気が付いたという若島津だった。 「って、お前だって、部屋にいなかっただろうが・・・。」 「俺はいいだよ、日向さんとこに行くのはいつもじゃないか。」 「何だよ、そりゃ!」 こっちの方が文句を言いたい、と若林は思うが、あまりこちらから話を突付くと、後で自分が不利になる。 若島津の言うとおり、よく彼は日向のところに遊びに行って、そのまま寝てしまうことが多かった。夏なので、ベッドに入らなくても風邪をひくことはないだろうが、それでもスポーツ選手としては身体の管理がたりないだろう、と前に忠告したこともある。それでも、今だこうなのだから、改めて言っても仕方の無い事だろう。 「で、デート?」 冗談で囃し立てる声は誰のものだったか。 どっと笑い声が沸き起こる。それに苦笑で返すしかないが、内心、若林は、フツフツと怒りが込み上げてくるのに自分でも気が付いた。 何がデートだ!何もしらないヤツラが!!デートなんて生易しいものじゃないってんだ。 畜生! 岬まですかした顔をしやがって!誰の所為だと思っているんだ。 笑いこそはしていないが、何食わぬ顔をしている岬に怒鳴りつけたいのを必死に押さえる。 「ドライブだったんだろう?あ〜〜あぁ、俺も行きたかったなぁ〜〜。」 「そんな楽しいものじゃないって・・・。本当に眠れなかったから仕方がないだろう?結構気が紛れるんだよ、車で走るのって・・。おかげで帰ってからはよく眠れたよ。」 「まるで赤ちゃんだな、確か、翼んとこのチビ共も、そんなこと言ってなかったっけ?なぁ、翼。」 「うん、まぁ、そうなんだけれどね〜。でもうちのチビ2人とも、車で眠っても、家に着いて布団に寝かすとすぐまた起きちゃってたから。早苗ちゃんも俺もあの時は、ヘロヘロに疲れてたな〜。」 「なんだよ、それ!僕は子どもじゃないですよ〜だ!」 岬も話をあわせて文句を言っていたが、いつの間にか、そうそう、俺んとこのいとこなんて・・・。と、どうしてだが、話が赤ちゃん談義に早変わりしてしまった。なんとも、単純なメンバーばかりだ。 翼もいつの間にか子ども自慢をしている。本気ではないにしろ、怒っていたんじゃないか!と、突っ込みたくなるのを押さえて、若林は自然岬に目が行ってしまった。 それに合わせたつもりはないだろうが、岬も若林を見つめている。が、その顔は最初に見たと同じ無表情であった。 今、一緒になって話していたのは、誰だよ! 岬の真意が掴めない・・・。 若林は困惑してしまった。 怒りの中にも、僅かだが違う感情が同席している。ただの怒りだけではなく、嫌悪も含まれているからかと思ったのだが、どうやらそれだけではないような気がする。が、それが何なのかは若林にはわからない・・。 ついつい岬の表情を追ってしまう。 岬を見ると、いつの間にかまた皆と一緒になって笑っている。その為、誰も岬の変化に気が付かない。自分だけが知っているのか。 俺だけが・・。 と思った瞬間、今度は全く違う岬の顔が脳裏に浮かんだ。 今朝にも脳裏に浮かんだあの顔。 それは、昨日、己を奥底に突き落とした顔だ。喘ぎながら、若林に縋りつく娼婦の顔だった。 カッと赤くなる。 こんなのは我慢がならない。 一体何を考えているんだ、俺は・・・。 ガタリと椅子を倒す勢いで立つと、早足でその場から離れた。 皆がどうしたと一斉に振り向く。翼が何かしら声を掛けてくれたが、それも耳には入らなかった。 この場にはいたくない、と若林は全身で岬を拒否した。 が、その無言の言葉を受け取れたのは、やはり当事者の岬だけだった。無表情だったのが一瞬曇る。 背中を向け、さっさと歩く若林には、もちろん岬の曇った顔はとうてい気が付くことはできなかった。 「どうしたのさ、若林くん。調子悪いの?」 若林が座っている場所は大木の下で影が大きくできていた。風も出ていて夏の日差しが厳しい時間帯にしては涼しかった。 ただベンチも何も無い所だったので、他には誰もいない。皆、それぞれ、屋根のある所に移動していた。 また、今は休憩時間だとはいえ、まだまだ昼食までには時間がある。お茶を飲みに水飲み場へ行っている者もいた。 多くの者が短い休憩時間をとりながらも、おしゃべりに余念がない。つらい練習を楽しい話題で気を紛らわしているようにも見える。さまざまな表情が若林からは見えた。 そして、ついつい目がいってしまう人物を眺めていた時だった。 ふと声を掛けられた。 「つばさ・・・。」 ニコリといつもの笑顔を携えて翼が若林の隣に座った。地面の冷たさが気持ちいい。 土が付いてしまうが、どうせすでに汚れているのだ。今さら気にするものでもない。 「なんか、今日の若林くん、変だ。朝の事といい・・・。岬くんは、何も言わなかったけど、ケンカでもしたの?」 先ほどの笑顔はどこへやら、心配気に翼が聞いてきた。 「ケンカ?」 そうだな、ケンカだったらいいな・・・・。 そんな言葉をつい、口からついて出てしまいそうになるのを堪える。 言えやしない。固く口止めされているのだ。 いや、口止めされていなかろうが、翼には言えるはずがなかった。 失望させる。 いや、失望程度ですめばいいが・・・。 今までも、これからも、ずっとコンビを組み、相棒として、翼は岬を信頼し、また好いているのだ。もちろん他の仲間とも一緒にワールドカップを目指すのは当然だが、それ以上に翼には岬がサッカーをする上で必要不可欠な人間なのだ。 それを・・・。 それを、失わせることは出来ないと若林は思う。 例え自分は岬に失望し、嫌悪し、顔も見たくないと思っていても、翼には大事な人間なのだ。 どう答えてよいか、わからないまま固く拳を握る。 「ケンカ・・・・じゃないさ・・・。ただちょっと疲れているだけで・・・。」 それだけ答えるのが精一杯だった。 「そっか・・・。」 心配気に覗いていた翼の顔が晴れた。 「だったらいいんだ。やっぱ、疲れてるんだね。岬くんもそんなこと言って気にしていたんだ。自分の所為だって・・・。でも、若林くん、それぐらいで岬くんのこと、怒ったりしないだろう?」 岬、の名前にいちいち反応してしまう自分に若林は嫌気がさした。 が、岬も気にしているのか、とも考えると、やはり岬の事をどう扱ってよいのか、わからなくなる。 嫌いになったはずなのに、関わらないと決めたのに。若林の方こそが気になって仕方がない。 「別にあいつの所為じゃないさ。俺が自分から岬に付き合うって言って出かけたんだ。岬が気にするようなことじゃない。」 つるりと口から出た言葉は、本音でもあった。 いろいろな感情が渦巻いてはいるが、確かに岬の所為ではない。 「だったら良かった。若林くんもだけれど、岬くんも・・・。今日、やたらミスが多いんだよね〜。だから、夕べのことや今朝の若林くんのことで何か気にしているんじゃないかって・・・。でも、よかった。だったら、岬くんにちゃんと言ってね。怒ってないって。」 「俺が?」 「だって、そうだろう?若林くんを怒らせたって、岬くん、気にしているんだから・・・。若林くんが直接言うのが一番いいじゃないか?・・・・・それとも、やっぱり、ケンカ?」 「!・・・・だから、ケンカじゃないって言ってるだろう!」 だ〜〜〜っ、もう!と言いたくなる。 だが、仕方がないと若林は思う。翼は何も知らないのだ。 翼は首を傾げて若林を見ている。 いい年をして、無邪気にもほどがある。もう少し落ち着けばいいものを、あれは一生治りそうにない、と若林は内心苦笑した。 おーい、翼!と遠くから声が掛かった。何やら石崎達が楽しそうに話しているのが見えた。何の話題かはわからないが、どうやら翼に用があるらしい。 石崎達の方に手を振ると、じゃっ、と言って走っていった。もちろん、「岬くんにちゃんと言うんだよ。」の一言も忘れずに。 若林は大きくため息を吐いた。 翼のために、今までと同じように岬と普通に接しよう。 |
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またもや、だらだらと・・・。(土下座)
2005.10.25