膿 ー28ー
ガタンッ 大きな音が室内に響いてきて、思わずビクリと身体が震える。 今、この部屋には二人しかいなくて、あらぬ方向から耳に届いた音に覚えがない。 なのに、聞こえた音はまぎれもなく自分達以外のところから発されたもので・・・。 若林は、ふいにこの家には自分と岬以外の人間がいたのを思い出した。 まさか、の思いで振り向く。 ゆっくりと振り向いたその先には。 そこには、予想通りというか、予想外というか。 大空翼がいかにも俺が音を立てた張本人です、といわんばかりに場所にいた。が、それは驚きのあまりだったらしく、部屋の入り口でドアに縋って座り込んでいる。 思いもしなかったんだろう。 想像すらしたことがなかったんだろう。 当たり前なのだが・・・。 この目の前の出来事に声すら出す事が出来ないのが、見て取れるほど驚愕した表情だった。 しかし、驚いたのは、翼だけではなく、若林も岬もそれは同様で。 咄嗟に反応することができなかった。 ただただ、自分達が絡み合う体制のまま見つめあう形になってしまった。 所謂挿入前とはいえ、どう見ても、誰が見ても、今ここで何が行われているのか一目瞭然の様に翼だけでなく、見られた方も声が出ない。 お互いにショックがあまりにも大きかった。 誰ともなしに汗が流れる。 どれくらいそうしていただろうか。 気が付けば、岬の身体は震えていた。その顔は青ざめており。 若林に縋りつく手に力が入りすぎて、若林は痛みに顔を顰めたほどだ。 当たり前か・・・。 見られてしまったのだ、翼に。 知られてしまったのだ、翼に。 岬が、何を差し置いても、一番知られたくなかった相手だ。 岬の瞳が怯えてに瞑られるのを見た瞬間、若林は対称に頭が冷えたのを感じた。 そうだ。 何も、組織のことまで知られたわけではない。 岬と己の関係を知られただけだ。 最初の切欠はともかく、今はお互いに好意をもって出来た関係だ。 翼ならわかってくれるはずだ。 翼なら知っても理解してくれるはずだ。 今始まった付き合いではないのだ。 大丈夫。 翼なら大丈夫。 そう内心勝手に結論づけて、若林が口を開こうとした瞬間。 「どういうこと・・・・。」 酷く冷めた声が扉の前の男から漏れた。 それは、震えているせいか、若林の耳に届くのが精一杯で岬にまで届いたかどうかわからない。いや、岬は耳を閉ざしているかもしれない。 「若林くん・・・・・・と・・・・岬・・・・くん・・・。そう・・・いう・・・・関・・係・・・なの?」 到底理解してもらえるとは思えない声音だった。 若林はゆっくりと岬から体を離して、少し離れた位置に放っておかれていた薄布団を取り、さりげなく岬に掛けて露わになっていた下半身を隠した。先ほどまで昂っていて色付いた岬を見せたくないという小さな思いと共に、まるで硬直してしまったように動けない岬へのせめてもの若林の配慮だった。 が、その岬への配慮がさらに翼を怒りへと導いてしまったらしく、翼の眉が険しくなる。 若林の行動を返事と受け取ったのか、今度は岬に声を掛ける。 「岬くん・・・・。どういうこと・・・?」 今度は岬の元にまで翼の言葉が届いたのか、岬の身体が大きくビクリと震える。 若林が顔を覗き込むとさらに色をなくす顔が暗い部屋の中でも手に取るようにわかった。ガチガチと歯の根が合わさっていない。 翼の呼びかけに、岬の振るえは一層酷くなった。返事ができる状態でないのは一目瞭然だった。 ダメだ。 若林は思った。 名前を呼ばれて反射的に反応はするが、それに答えることができない。 今の岬にはきっと何を言っても、耳には入っても心には届いていないと判断された。それほどまでに反応が良くない。 それと同時に、翼の方も、きっと聞き入れてもらえないほどに怒りが湧きあがっているように伺えた。 自分と岬がお互い惹かれあって結ばれていると訴えても、それを受け入れてもらえるような許容の大きさは今はないように思われた。 が、どちらにしても、このままでいいわけがない。 最終的には岬が受け入れたとしても、今のこの状況を作ったのが自分であることの責任は取らなくてはいけない。 「翼・・・。」 「・・・・・何?若林くん・・・。」 「きちんと説明するから、・・・まずは、先に下へ降りて待っててくれないか・・・。」 本当は翼も早くこの状況から抜け出したいのだろう。震える手が拳で固く握られているのが若林の目に届いた。 岬も虚ろな瞳を若林に移した。 ポンポンと岬の肩を叩き、「大丈夫だ」と囁く。 己の服を調えながら、ベッドから降り、翼に向き合った。 「すぐに行く。下で待っててくれ・・・。」 正面から翼の眼を見て、誠心誠意を込めて声を掛けた。 若林の心根を読み取った翼は、黙ったままゆっくりと立ち上がるとそのまま足を引き摺るようにしてその場を去っていった。 パタンパタンと階段を降りる音が部屋の中にまで響いてきたが、リズムは緩慢な動作を若林達に教えてくれた。 自分達もだが、よほどのショックだったのだろう。もしかしたら、自分が岬の裏の仕事を知ったときよりもショックを受けているかもしれない。 このまま自分の話に耳を傾けてくれなければ、翼との交流もなくなってしまうのだろうか。 同じサッカー仲間としてこれからも付き合うことができなくなってしまうんだろうか。 そう思うと若林はブルリと身震いした。 まだ終わっていないのだ、自分も翼も。そして岬もまだサッカー選手としての人生もその役目も終えていないのだ。 些細なことではないが、それでもお互いのサッカー仲間としての信頼と、友情を壊してしまうほどのことではない、と若林は改めて思い至る。 好きなのだからいいではないか。 確かに最初は、嫌悪から始まった岬への気持ちだが、今は翼と早苗のようとまではいかなくとも、未来を夢見たくなる相手になったのだ。 ただただ好きになったのが、男で、一緒に世界の頂点を目指す仲間だった岬だっただけだ。 岬への思いは嘘偽りのないものだ。 だったら、何も恐れる事なく、翼にきちんと説明すればいい。 組織のことは、言えなくとも、岬に対する気持ちは全て洗いざらいぶちまけて理解してもらうしかない。 それでも、あの翼の眼は自分達を嫌悪する目で。恐れる目で。蔑む目だった。 岬がもっとも恐れた眼だった。 若林はそっと岬の元へ戻ると、一度は掛けた布団を外し、乱れて皺になったシャツに手を掛ける。 先ほどまであれほどピンクに染まり色香を撒き散らしていた肌は冷めて、今は違う白さをあらわしていた。 岬は俯いたまま、若林にされるがままになっていた。 あまりに落ち込んだ表情に、つい若林がキスをしようと顔を近づけると、跳ねるように後退った。 「みさき・・・・。」 名前を呼ばれた瞬間から、ポロポロと涙を溢した。 「ぅ・・・えっ・・・。えっ・・・。」 まるで赤子のように泣き出した岬に若林はどう接していいのか、困り果ててしまう。 最初に抱いた時も泣いていた岬。だが、あの泣き方とはまるで違う、子どものように泣く岬。 あの時は押し黙って、声を殺して泣いていた。 のに、今は箍が外れてしまってまるで壊れたおもちゃのように泣いている。 それほどまでに、岬には翼に知られてしまったことがショックだったのだ。 若林は、岬を抱きしめた。 強く強く抱きしめた。 「みさき・・・・・。岬・・・・。」 「ふえぇぇ・・・・・・・。うぇぇぇ・・・・・んっ。」 翼が下で待っているのはわかっているのだが、岬をこのままにしておく訳にはいかず、若林はゆっくりと岬の肩を撫で摩る。 こうなった責任を取らなければならない。 そして、岬を守りたい気持ちに変わりはない。 只管只管、若林は岬を抱きしめて、撫で摩った。 どれくらいそうしていたのかわからないが、かなりの時間そうしていただろう。 よく翼が待ち焦れて再度二階へと上がってこなかったな、と若林は思った。 もしかして、翼にも冷静に考える時間が必要だったのだろうか。 今だしゃくり上げる岬にもう一度、声を掛けた。 「岬・・・。」 声は出さずとも小さく頷いた。 「今から、翼と話をしてくる。」 コクリ 「岬は翼と顔を合わしたくないだろう?・・・だからここで待っていてくれないか?話が終わったら、すぐに来るから・・。」 瞬間、岬は涙で濡れそぼった瞳で見上げた。一応、若林の言うことはわかっているようだ。 「大丈夫だから・・・。翼はずっと今まで一緒にサッカーをしてきた大事な仲間で親友じゃないか・・・。あいつだって結婚しているんだ。人を好きになる気持ちがわからないわけではないはずだ。きっとわかってくれるって・・・。」 若林の言葉を聞いて再度俯いた。 「それまでそこで寝てていいから・・・。」 そっと手をかけ、岬をベッドに横倒せた。 薄布団を被せると、再度ポンポンと肩を叩いた。 そのまま、ゆっくりと若林は翼の待つリビングへと向かった。 結局、岬は若林とのことを翼に見られてから声を一言も発する事がなかった。 |
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2006.10.02.
9月はわりとマメに更新できたけど、10月は更新がゆっくりになる可能性大です。