ー29ー




音を立てないように扉を開けると、やはり若林に気が付かなかったようで翼はずっとソファに座ったままぼんやりと外を眺めたままでいた。

「翼・・・。」

名前を呼ばれて、ビクリと身体が跳ねる。
一瞬のことだったが、それだけ翼の気が逸れていたのがわかる。いや、逸れていたというよりも、単純に先ほどのことを考えこんでいたのだろう。
若林の足が進むにあわせて翼もゆっくりと振り返った。

「若林くん・・・。」

翼も若林の名前を呼び返して、正面を向いた。
お互いの名前を呼びあい、暫く見詰め合う。どう声を掛けていいのか、言葉を捜しているようだった。
暫くそうしていて、一度考え俯いた。が、再度、翼が顔を上げた。

「・・・・・岬・・・・くんは?」

ソファに沈んみ込んでいた体も正して。もう一人、ここに来なくてはいけないはずの人物の名前を呼んだ。
が、若林が一人でリビングに来たのは予想していたのだろうか。淡々とした声だった。

「上で休ませている。あいつもショックだったらしい・・・。」

若林の言葉に一転して翼が声を荒げる。

「何がショックだよっ!こっちの方がずっとショックを受けたよっっ!!」

翼の目も言葉に合わせて細められる。翼は一見静かだったが、その内は実際かなり興奮していたらしく、声が強張っている。
若林は、己まで冷静さを失わないよう深呼吸をした。
それが余計に翼の癇に障ったらしい。いつになく目が釣りあがっていく。

「岬くんもここに連れてきてよ!二人で釈明してよ!どういうことだよ、これ!!いつからなのさっ!」

勢い捲し立てる翼に、若林は自分がソファに座る事で話し合いの形を作り、冷静さを取り戻してもらおうとした。
が、翼は音量を下げはしたものの、酷く低く罵ることで怒りを倍増させる。

結局、若林がリビングに降りるまでの時間は、冷静さを取り戻すどころか、翼には反って怒りを募らせる時間にしかならなかった。

「翼・・・・。落ち着いてくれ、きちんと俺の話を聞いてくれ。」

穏やかに話を進めようとする若林の方が空回りしているようにさえ思えた。

「俺は認めないよ!」
「どうして・・・・?世の中、こんな形でしか人を好きになれない人間はどこにでもいる。ましてや、サッカー界にだってよくあることじゃないか。現に・・・・・翼のいるチームにだって・・・・・いるんだろう?」

若林の言う通り、サッカー選手の中には、スポーツの特性とでもいうのか、点が入った時などに見られる過剰すぎるほどのスキンシップでもわかるように、そういった関係を好む者は他のスポーツよりも多いという話を耳にする。実際、若林の所属するチームにもそういう嗜好の選手がいないわけではなかった。
たまたま、今の全日本には、そういう嗜好を持つ人間がいないので、目にする機会は少ないが、翼がサッカーをしている国にだっているはずだ、と若林は思う。
それを口した瞬間、翼がダンとテーブルを叩いた。

「確かに俺のいるチームにもそういうヤツはいるさ。そういう人のことをどうこう言うつもりはないよ。でも・・・・だからって、なんで若林くんと岬くんがそういう関係なんだよ!それとこれとは話が別だ!」
「別なもんなか!」
「別だっ!!」

今度はダンと若林が机を叩いた。
まだテーブルの上に残っていた皿がガチャンと音をたてて揺れた。

お互いに睨みあう視線を外さない。

理不尽だ、と若林は思う。
友人がそういう嗜好に走ったのは確かにショックだとは思う。大手を振るって認めてもらえるとも思っていない。でも、だからって自分達の関係を否定されたくはなかった。
ましてや岬は好き好んでいるわけではなく、強要されてるにしても、仕事として男に抱かれているのだ。
これではあまりに・・・・。あまりに岬が惨めではないか。
翼には、祝福されなくとも、認めてはもらいたかった。

「俺は真剣だ・・・。」
「若林くん・・・。」
「岬とこういう関係になったのは、つい最近のことだ。が、真剣に岬のことを愛しているし、あいつを抱きたいといつも思っている。嘘偽りない俺の気持ちだ。岬だって俺の気持ちを受け入れてくれている。」
「それで・・・・、それで若林くんは岬くんとそういういことするの?」
「・・・あぁ、悪いか?」

いっそ開き直った発言をすれば、翼も諦めるだろうか。
言葉は意地を感じさせるものだったが、それでも若林からすれば嘘はない。

「最低だよ・・・。」
「翼・・・。」

唇を噛み締めて翼は俯く。

「最低だよ、若林くんも、岬くんも・・・。俺はずっと二人と友だちだと信じていたのに・・・。」
「今も友だちじゃないか・・・。」
「違うよ・・・。俺はそんな汚れた友だちを持った覚えはない。汚いよ、二人とも。」

パァンと高い音が鳴り響いた。



翼が目を見開く。
一瞬、何が起こったのかわからなかった。
若林の方も、己の手の平を見つめている。咄嗟に立ち上がって翼にしてしまったことに自ら驚いていた。
が、驚きはしたものの、後悔をした顔はしていなかった。それどころか、翼の言葉への怒りが収まらない。

じわり、翼の右の頬に痛みが広がってきた。かなり思い切りやられた、と翼は思った。

「若林・・・・くんっ!」
「汚い・・・とか、言うなっ!二度と言うな、そんな言葉を言うなっ!!」

翼の名前を呼ぶ声に触発されて、若林は再度翼を睨む。
ギロリと睨みつける若林の目はただただ怒りしか現していなくて、翼は心底怯えた。
こんな若林を見たことがなかった。試合でさえ、ない、と翼は思う。
しかし、一度は怯んだものの、翼もまた負けていなかった。いや、負けるということを知らなかった。それは王者たる人間故か。

「どうしてさっ!何も俺は間違ったこと言っちゃいない。若林くんも、岬くんも自分のしていること、わかってるのかよ!仲間だぞ。男同士たぞ!!」
「男同士の何が悪いっ!好きになったのが、岬だっただけだっ。」
「だから、どうして岬くんなんだよ!一緒にサッカーしている仲間とよくもあんなことができたもんだね!」
「翼っ!!」
「二人とも大嫌いだよ!!」
「翼っっ!!」
「俺は帰るよ。」

赤く腫れた頬はそのままに、翼は立ち上がった。
怒りはあるものの、このまま翼を返しては、関係が悪化するだけだ、と若林は理性を頭に残した。

「待てっ・・・。」

掴まえようとして、するりと抜けてしまった翼の腕はそのまま部屋の片隅に置いてあったバッグを持ち上げた。

「待てっ。まだ、話は終わってない。」
「僕はもう話はないよ・・・。帰る。」
「帰るって、今からか!列車も飛行機も動いていないぞ!治安は悪くないが、誰も出歩かない時間だ。」
「いいよ、タクシー拾うから。」
「そのタクシーだってすぐに掴まらない。夜が明けてから帰る方がいい。もとより、そういう約束だろうが。」
「ここには・・・、いたくない。君の顔も岬くんの顔も見たくないよ。」
「翼っっ!!」

バッグを肩に担いでそのまま玄関へと向かう翼に若林は後から何度となく話しかける。が、そのどれもが翼の足を止める効果は得られなかった。

「じゃあ・・。」
「つばさっっ!」

振り返りもせずに出て行こうとした翼のドアノブを取ろうとした手が止まった。
一瞬止まった動きは、若林の言葉ではない何かが翼を止めたことを教えてくれた。
何事か、と若林も翼の背後から翼の手元を覗き込む。

翼の手はドアノブを握る前に空を掴んでいた。
目線は手元の先にある、ドアに繋がっていた。若林も翼に釣られて目の前の玄関ドアへと向かう。
二人が見つめる先の主であるドアは、キィキィと小さな軋音を鳴らして小さく揺れていた。ドアの揺れの原因である空気の流れともいうべきか、風が二人の身体の間をすり抜けた。
若林も翼も、動きを止めた僅かな間にそれが何を意味するかすぐに悟った。







先ほど、夕食の食材を買いに出かけた時は、三人一緒で。
帰りは比較的荷物の少ない岬から家に入った。そして、翼、若林と続き、この家の主である若林がきちんと鍵を閉めたのだ。それは、その場にいた翼も、そして岬も確認している。
そしてその後、誰も外へは出ていないし、誰かが来客した記憶もない。確かに鍵を掛けたはずなのだ。

それが、開けられているということは、推理するまでもなく、誰かがそのドアを通っていったということで。
泥棒が入ったとか、そんなことは考えるまでもなく。一瞬で原因が理解できた。

慌てて若林は、岬が休んでいるはずの二階奥にある寝室へと走る。
段差の大きな階段は、その高さをものともせずに段抜かしで駆け上がり、廊下を走り、バンと勢いよく部屋への扉を開けた。


そこには休んで横になっているか、それとも疲労の為に眠りこけているかしているはずの茶色頭が目に入ることはなかった。
かわりに捲れ上がったままになっている布団がそのままに、空気の通り道を作った窓から入る風にカーテンが靡いているだけだった。

誰もいない。
いるはずの岬がいない。

若林はすぐさま踵を返して、隣の部屋へと走り出す。
バタンとドアを開け、部屋を見渡す。そして、また隣の部屋へと。
二階の部屋を全て回ると、今度は階段を転げ落ちそうな勢いで駆け下り、一階でまた同じ行動を繰り返し、ありとあらゆる部屋を回った。
が。
どこにも、いるはずの人物がいない。
だが、岬のバッグは翼が先ほど持ち出したものの横に確かにあったし、今、リビングで捜し回った時にもまだあったのだ。
それなのに、岬本人がいない。


若林が家中を走り回る様は、「帰る。」と言い、その言葉通りに帰るはずだった翼の行動を止めた。

ハァハァと普段の運動量を考えれば、これだけで息が上がるのが信じられないほどの息の荒さで若林は翼のいる玄関に戻った。

「つばさ・・・・。」
「・・・・・。」

膝に手をつき、動悸の治まらない心臓をさらにテンポアップさせて若林が顔を顰めた。

「岬がいない・・・。」

翼の眉が跳ね上がった。
が、その口から出てくる言葉は先ほどの翼の怒りが篭ったセリフが発せられた時と何一つ様子は変わらなかった。

「帰ったんじゃないの?」
「つばさっ!」

突如、岬が居なくなってさえ、翼からは冷え切った言葉しか出てこなかった。





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2006.10.10




漸く、折り返し地点?(^_^;)