膿 ー31ー
「いったぞぉ!」 岬に向かった叫ばれた声は、だが、岬の耳には届いていなかったようだ。 向かってきたボールはそのまま目的地とされた岬の脚をすり抜け、コロコロと芝生の外にまで転がっていってしまった。そのままピーッと笛が鳴った。 誰かの舌打ちに、はっ、として慌ててボールを追うが、その足つきさえ危なっかしさを感じる。 ボールとともに声を掛けて男は、大きくため息を吐いた。 「もう、今日は上がれ・・・。こんなんじゃ、練習にならない。他のヤツにも迷惑が掛かる。」 腰に手を当てて、ボールを手にした岬を見下ろす男はこのチームの重鎮でもあり、現在岬とコンビを組んでいるピエールだった。岬は言葉を返すことなく、項垂れる。 二人の様子を見ていた、紅白戦の審判をしていたコーチも少し離れた位置から頷いた。 と、同時に遠めからずっと岬を見詰めていた別のコーチも岬の傍に寄ってきた。そのコーチが近づくと思わず身体が竦む。組織の人間でもあるこのコーチはまるで自分を監視をしているように岬には思えてならなかった。 「ピエールの言うとおりだ。今日は上がれ。この調子だと明後日の試合も使ってもらえるかどうかわからないぞ。」 半ば脅しにも聞こえる口調で言われるが、もっとものことなので反論もできない。 岬は、コクリと頭を下げると、ピエールに一言「ごめん。」と言って、そのまま重い足取りで練習場の外へと脚を向けた。 岬の落ち込みようにさすがに悪いと思ったのか、ピエールは、項垂れたままの岬にポンと肩を叩いて「ゆっくり休め。」と一言だけ告げると、そのまま紅白戦へと戻っていった。 一度は、不調を乗り越えて明るくなったと思ったのだが、その反動とでもいうのか、ここ最近、かなり酷い調子だ。このままだと、コーチの言う事もあながち嘘にならないほどだ。 ピエールは岬のプレイ、そして岬本人を大層気に入っているので、この調子の悪さが残念でならない。 一歩引いて岬を見ている様子だと、ただ単に体調が悪いというわけではないようだ。どちらかといえば、精神的なものからきているのは、察しがついた。 一体何が、そんなに岬を苦しめているのかはわからないが、それでも岬の力になりたいと純粋に思った。 その思いはピエールのプレイや仕草に顕著に現れ、いつも岬を助けてくれた。 そんな大事なチームメイトに、岬としても申し訳ない気持ちで一杯だった。もちろんピエールだけではない。岬の不調は知っていても、いつかはふっきれるだろうと信頼して岬にボールを預けるチームメイトも同様だ。 このままでは、いけない。 岬はわかってはいるのだ。 パタンとロッカーのドアを閉めた。 床に置いたバッグを手に取り、ため息を吐く。 あれから・・・。 若林の家から帰って来てから、ずっとこんな調子だ。 思うように身体が動かない。 調子が悪い理由は、単純に体調が悪いわけではないのはピエールが察している通りで、精神的なところから起因しているのも自覚済みだ。 これではいけないと分かっている分、足掻いてはいるのだ。だが、足掻けば足掻くほど、ボールが脚から離れて行く。走りに重みが増して行く。 今日、練習から帰されたのは遅いぐらいだと思う。それほどに、今までの状態が良くない。 コーチの言う通り、今度の試合では出させてもらえないだろう。 もしかしたら、ベンチにも入れないかもしれない。 今の状態が怖い。 怖いが、今の自分にはどうすることもできない。思うように身体が動かないのだ。 まるで身体中の神経が繋がっていないように、頭で描いた通りに脚が動いてくれない。手も上がってくれない。 チームメイトが疲れているのだろう?と声を掛けてくれたこともある。実際に眠れないのも本当だ。 目を瞑ると思い出される。 あの、冷えた眼差し。 翼の見下げた瞳。 無理もない。当たり前だ。 それだけのことを仕出かしたのだ。 男と寝るようになった時に覚悟はしていたはずだ。 いつかはこうなると。 だから、ショックはあるにしても、大丈夫だと思った。 が、この有様はどうだ。 サッカーができないほどの衝撃を受けている。 若林に裏の仕事がバレた時とは比べ物にならないほどのショックだった。 それだけ。 翼はサッカーというスポーツに置いての岬の夢だったのかもしれない。いや、聖域だったのだろう、彼は。 「もう、辞めてしまおうかな・・・・。」 岬はバッグを手にしたまま、ポツリと呟いた。 とたんにガチャリと音がした。ノックもなしに。 跳ね飛びる勢いで驚くと、そこにはニヤリと厭らしい笑みをしたコーチが立っていた。先ほどの心配気な様子はどこ吹く風だ。 「心配で様子を見に来たんだ。」 表情とセリフのギャップは嫌がらせとしか思えない。岬の目が細まる。 「このまま、これでいいのか・・・?」 「どういうこと?」 「サッカーで使い物にならないようだったら、お前は用無しだ。」 「何を今更・・・・。僕に強要しているのは、サッカーのことじゃないじゃないか・・・。」 フンと横を向く岬は顎を掴まえられ、コーチに視線を合わせさせられた。 「まぁ、ここではお前のような男は妙にモてるからな・・・。一度にあれもこれもさせるほど、俺達も鬼じゃないさ。・・・がそろそろ本業に措いても、お前に仕事をしてもらおうと話が出ていたんだ。」 顎を掴まえたコーチの指に力が入る。 「が、今の調子はどうだ。まったく役に立たないじゃないか・・・!これじゃあ、稼げないだろうが!!」 バッと岬はコーチの手を払った。 「ちょうどいいじゃないか、僕はお払い箱で結構だ。」 キッと岬は睨むがそれを嬉しそうにコーチは眺めた。 「じゃあ、・・・・本業での方の仕事は別のヤツにしてもらおうか・・・?」 「・・・・・・え?」 「例えば・・・・・・・。」 薄く開いた口元が上方に歪む。 「ドイツの日本人GKとかな・・・・。いかさまさせるにはもってこいかもな・・・。」 「・・・・な!!!」 岬の顔が強張った。 「知っているんだぜ?お前と日本人GKとの関係を。」 「・・・・!!」 岬の目が大きく見開かれた。 「まぁ、お前達の関係に口を挟むつもりはないが・・・・・。お前が満足に仕事ができないなら、ヤツにお前の変わりに働いてもらっても構わないんだぜ?」 一瞬にして、岬は目の前が真っ暗になった。 カタカタと身体が震えだす。 「まぁ、日本人のスーパースターには手を出すな、と今のところ言われているからな。だから、大空の方には何もしないさ。が、GKの方は、そうもいかない・・・かな。」 翼の名前は今の岬には酷だった。 自然と涙が零れる。 若林くんには、手を出させない。ましてや、翼くんには指一本触れさせない。 そのためにあらゆる汚れ事は自分が引き受けると。そうずっと思い続けてきたのに。 言葉の危から出たことだとしても、本当に彼を巻き込むつもりはなかった。それは、若林と関係が出来、若林が一緒に落ちてもいいと言っても思っていたことだ。 若林に自分の裏の仕事が知られてしまった時に誓ったことだったのに。 だが。 世の中はそう甘くない、ということか。 知っていたはずだ。組織がどれだけ卑怯か。組織からは何をしても逃げられないのか。 今更ながらに思い知らされた。 「・・・・・若林くんには、言うな。彼は関係ない・・・・・。」 震える声で目の前のコーチであるはずの組織の人間に訴える。 「そうはいかんだろう・・・・。お前が役に立たないのなら、それを誰かに代償してもらわないといかん・・・。」 岬の耳には、地獄の鬼の言葉しか届かなかった。 だが、岬はそのままそれを受け入れるわけにはいかない。どんなことをしても、彼らを巻き込みたくはないのだ。 「僕がやるから・・・。僕が全てやるから・・・・。だから、彼にはこのことは黙っていてくれ。」 「その調子でか?ここ最近の調子じゃ、今度の試合、使ってもらえないだろうとさっきも言っただろう。いくら俺が後押ししても、監督はお前を使わないだろう。まだ、ここの監督には手を廻せていないんだからな。」 「調子なら、今・・・・・もう、元に戻ったさ。」 そうきつく眼差しを鬼の顔をした男に向けると、肩に担いだバッグをロッカーに仕舞い直した。 「今から、もう一度、練習に戻る。」 岬には、もう後がなかった。 |
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2006.10.31
いきなり展開が変わるとは・・・自分でもビックリ。(汗)